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§ ふたりめの父を喪って §

妻の父が満百歳の寿ぎを受けて間もない10月29日に生涯を終えた。私自身の父親は3歳で亡くしていたから『父親』という言葉で言い表せる人は実質的にこの義父のほかにはいないと日ごろから感じていたが、喪ってみて自分の中での存在の意外な大きさに驚いている。
 父の死は、父が母とともに住む妻の実家から数百メートルの距離にある婚家から介護に通いつめていた末の娘(妻の妹)から電話で伝えられたが、妻はどう聞き違えたか臨終の場には立ち会えるものと思って急ぎ帰郷した。”死”を、その言葉で伝えられなかった妹と、そう思いたくなかった妻の、ともに心の底にあった気持ちが思い遣られて胸に迫るものがある。肉親の死とはそういうものであろう。
 長年連れ添い、近年は介護に明け暮れていた93歳の母を気遣って高速バスで実家に向かう妻が、つい先日までそれに乗って行き来したバスにどんな気持ちで座っているのだろうと思うと、これもまた胸が痛む。
 父の葬儀には400人もの弔問の人々が訪れた。100年の重みというしかないが平凡な表現だがこれこそ父の人徳のゆえである。葬儀は神式で執り行われたが琴、篳篥(ひちりき)、竜笛(りゅうてき),笙(しょう)などの和楽器の演奏がことのほか床しくその静謐さに身を委ねたひとときであった。
 葬儀で感銘深い弔辞に出会うことはなかなかないが、82歳になるという、父の教え子の言葉は、そのとつとつとした語り口とは裏腹に、父の教師人生と人柄を雄弁に物語っていた。前夜5人も同級生が集まって、かつての同級生全員に父への別れの言葉を募ったとのことである。60年以上の年月を経ての熱い言葉は感動の涙なくしては聞くことができなかった。
 8人の孫、彼らの5人の連れ合いと一人のひ孫たちからの別れの言葉も、父のひととなりをしのばせるものであった。父が彼らに与えたもの、与えようとしたものを彼らがしっかりと受けとめていることがよくわかった。
 弔辞から聞き取るまでもなく、父は寡黙な中に熱いものを持ち続けた人だった。権力というものを忌み嫌う人であった。不正を極端に憎む人だった。そうしたことについてはさまざまな逸話が残っているが、その最たるものが人生を締めくくる葬儀に仏式を選ばなかったことである。先祖400年の菩提寺の住職に、仏道にいそしむ人間らしからぬものを感じ取って、心中ひそかに早くから縁切りをしていたものと思われる。教え子たちを満蒙開拓団へ駆り立てる権力に体を張った人である。その人生が平坦であったとは思われない。父はまた保守の停滞を嫌った。より人間らしい社会を希求し、常に前に進む革新を目指した。
 私はそうした父を近くに遠くに見ながら30歳以後の人生を過ごしてきた。家庭における父とはどういうものかを手探りする中で身近にあった手本は父だけであった。成長した子を見てその幼児時代の両親の教育姿勢を推測することは難しい。反面教師という言葉もある。私は妻を見てではなく、父や母自身を見て彼らの人生を見事に推測することができた。まだ彼ら自身を見て学ぶのに間に合ったことを心底幸せに思う。
 私が”天寿全う”という言葉を口にしたのに対して、妻から「妹がその言葉だけは言ってほしくない、と言ってたよ」とさりげなく伝えられた。子にとって親には全うする寿命などというものはないというメッセージである。確かに他人でしか口にできない言葉であろう。父を愛した私でも彼らと同列に列せられないことを自分の軽率な言葉で知らされることとなった。
 神道では故人は旅立つのではなくずっと留まって家とそこに残る人々を守る存在になるそうである。何かほっとしたものを感じさせてくれる。父の霊の安らかならんことを。

 父は絵画、彫塑など多くの作品を残した
                手前は父の愛妻がモデル、奥は処女作品

篳篥、竜笛などのゆかしい演奏裏に
 

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