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§ 踏み潰されたバイオリン §

昭和22年といえば日本中がまだ戦後の混乱の中にあり人々は日々の生活に追われて殺伐とした空気に包まれていたに違いないのだが、当時6歳の私がただ一人の家族であった老いた母と暮らしていた信州の片田舎は静けさと人々のつましくなごやかな暮らしぶりに包まれていた。時折近くの神社では引揚船興安丸の帰国者を迎える行事が行われて、そんなときは村が甦ったように賑わう程度だった。早逝した父親のわずかばかりの遺産を食いつないでいた我が家では私の誕生日に開ける「鮭缶」が唯一のご馳走でさえあった。

そんな折、私の学校上がりのお祝いと称して信じられないものが母から手渡された。大柄な私にも少し大きめの4分の3のバイオリンだった。友だちが読んでいる付録つきの少年雑誌をいくら欲しがっても、うちにはそんなゆとりはないの一点張りだった母が一体どんなつもりで、どう工面して高価な楽器を買い与えてくれたのか。そんなものより私は人並みのランドセルが欲しかったが与えられたのは肩からはすかいにかけるカーキ色のズック鞄だった。が楽器が醸し出す独特の香りとつややかな色彩にはなぜか胸が弾んだ。

 楽器にはケースはついていなかった。多分ぎりぎりの予算はケースにまでは回らなかったに違いない。私は当時開かれたばかりの才能教室に風呂敷に包んだバイオリンを持って通うことになった。もの珍しい気持ちはあったが、学校が退けてから友だちもいない才能教室へ行くよりも裏山で学校仲間と地蜂の巣を探し回ったり、川の上流でイワナをつかんで遊んだ方が楽しいのに、と恨めしく思った。

 しかし楽器が少しずつ弾けるようになるとともに演奏することの楽しさが徐々に他への興味を圧し始めた。才能教室の創始者の鈴木慎一先生が松本から来て手ずから教えてくれたり、才能教室の申し子のような豊田耕児さんが加わって合奏する機会に恵まれたりするうちに、私は完全にバイオリンのとりこになっていった。

 6年生になったとき教則本もかなり進んだところで地元の公会堂で教室の発表会が行われることになった。私は楽器が少し小さく感じられるまでに成長していたが手入れを怠らなかったので初めて手にしたときのつややかさは失われていなかった。

発表会も中ほどM先生を中心とした弦楽四重奏演奏の後、いよいよ私たちの出番となった。ところが楽屋に入り風呂敷包みを開いてみると何としたことか、そこにはバイオリンの優美な姿はなく、粉々になった木の塊があるだけだった。風呂敷に包んだだけの楽器をたとえ隅の方とはいえ畳の上に置いていた自分の軽率さが引き起こした悲劇だった。

そのときまず一番に脳裏をよぎったのはこれから弾くバッハのことではなく、母の悲しげな顔だった。習い始めのころ付き添いできていた母に向かってM先生が「お家ではお母さんに見てもらった方が上達が速いと思いますが」と言ったのに対して「いえ私がこの子の継母でございます」と小声で答えるのを耳にしたことがその後の6年間ずっと私の心に影を落としていたが、子ども心にこのことは封印しておかなければと感じていた。しかし踏み潰されたバイオリンを呆然と見つめる私を捉えて放さなかったのは、ひたすら実の子として育ててきてくれた母の愛を無残に踏みにじってしまったような痛恨の思いであった。骸(むくろ)と化したものの前で滂沱の涙はとどまることを知らなかった。

 その後しばらくの間は近所に住む教室仲間が週1回だけ楽器を貸してくれたため何とか教室に通ってみたが、自分の楽器の喪失は間もなく私から演奏への情熱も奪ってしまった。

 長じて大学3年の年、学内にオーケストラが発足した。たまたま先輩が、今使っていないビオラがあるよ、と言って貸してくれたのが楽器との8年越しの出会いとなった。が4年間のオケ活動の後先輩に楽器を返したことで再び演奏することから遠のくことになった。

 それからさらに20年の歳月を経てもはや初老といえる歳になってから地元の市民オーケストラに入団。迷った末求めた楽器はビオラだった。爾来今日まで市民オケのあまり上手でないビオラ弾きとして、またときにはカルテットのメンバーとして演奏を楽しんできた。22歳のとき母を喪って以来、時が多くのことを忘れさせてくれたにもかかわらず「踏み潰されたバイオリン」の記憶は母への懺悔の思いとともに折に触れ甦る。

 今春私はついに念願の“自分のバイオリン”を買い求めた。懐かしいニスの香りがあの時代の空気を伴って鼻をついた。それを手にしたときまるでフィルムを巻き戻すがごとくにあの粉々になった楽器が元の優美な姿を取り戻したかのような錯覚を抱いた。   

亡き母への鎮魂歌を捧げるまでにあの少年の日から55年の歳月が流れていた。

 

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