§ オペラと歌舞伎(2) §
今年の歌舞伎界は『勘三郎襲名披露』一色になろうとしています。昨年はもちろん『海老蔵襲名披露』で明け暮れました。年末には南座まで出かけてまるまる一日をまさに”海老蔵とともに”過ごた幸せな冬の日でありました。市川家伝来の《にらみ》にはぞくっとする痺れ感を味わいましたし、「し〜ば〜ら〜く〜」と声がかかるあたりは今か今かという期待感で胸を膨らませたりもしました。ここら辺はカヴァラドッシのアリア『星は光りぬ』を待ち望むときの心理と共通するものがございます。
さて歌舞伎といいオペラといい400年という伝統を保って行き続けるアートですがその魅力というか”魔力”は何辺にあるのでしょうか。
400年という歴史を振り返るときそこにはフィレンツェのカメラータがあり出雲の阿国がいて、シェイクスピアいて、少し遅れて近松や黙阿弥がいました。この間400年。それぞれに何という膨大な作品が凝縮されてあることでしょうか。
私の、オペラ観と歌舞伎観をあえていくつかの単語で表現すれば、「荒唐無稽」「不条理」「過剰な情念」「お涙」、そして「とにかく愛」、でございます。
それで私のような人一倍”理性的な”(とはどなたからも言われませんが)人間が何ゆえにバカバカしいほど理屈に合わないお話群に思いを寄せるのか、この機会に自ら分析してみようかと思い立ったわけであります。
そこで今日はまず「荒唐無稽」の部と参りましょうか。
”この部”に属する作品はオペラにも歌舞伎にもいっぱいありますが、とりあえずヴェルディの『トロヴァトーレ』と『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)』を例としてみます。
『トロヴァトーレ』は『夏の嵐』や『暗殺のオペラ』などいくつかの映画にも引用されていますからご存知の方も多いと思われる有名オペラですが、物語は時代考証もへったくれもなく、つじつまのあわせようもないまさしく”荒唐無稽”ものですが、同時に「不条理」部門にも該当します。
憎い相手の子と思って殺したのが実は我が子、しかし憎いはずの仇の子を盲目的に溺愛する女、兄弟と知らずに同じ女官を愛する二人の男、血の濃さに比例する嫉妬心、貞節のための死。血なまぐさい時代の狂気と愛。これだけ挙げればやりきれないほどの物語ですが、これがなんとも素晴らしいオペラなのです。
ヴェルディは前作『リゴレット』で革新的な試みをしました。ソプラノのアリアは1曲のみで、対話二重唱の連続によりオペラを緊迫感あるものにしました。しかし直後の作品『トロヴァトーレ』はちょうど歌舞伎の段物のように各幕を独立したものにして緊張感を持続させています。しかしいわゆるヒロイン・オペラとは異なり、各幕に実に多様な声域にわたる素晴らしいアリアを配しています。
一度聴いたら忘れられないアリア《恋は薔薇色の翼に乗って》、業火燃え荒ぶアズチェーナのアリア《炎は燃えて》、あらゆるアリアの中でも最も陶酔的なテノール《見よ恐ろしい炎》(「トロヴァトーレ」のバックグラウンドには終始”炎”が燃えさかっています!)、恋の二重唱「《いとしい君よ》、そして有名な《アンヴィル・コーラス》・・・・・。あの第2幕の始まりの飛び跳ねるような音楽を聴いたヴェローナのステージを満月が煌々と照らしていたことが忘れられません。
オペラはアリアであり合唱であり音楽であります。例えばヴェルディにおける<カヴァティーナ>(アリアの前半の緩徐部分)と<カバレッタ>(後半の速い部分)の変化を楽しんだり、<行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って>に胸を震わせたりします。でも同時にオペラは間違いなく”お芝居”であります。私は、舞台の上で演じられる物語の中で現実にはなしえない旅をしたり、起こりえない愛憎劇を経験したり、自ら殺人者になったりします。望んでも得られない豪奢な生活をし、倫理的に許されないし自分にはできっこない権力者の横暴を体験したりします。そして登場人物にわが身を重ね合わせることによって心の奥底に潜む悪魔的な自分を見つけ快感を味わいます。
そうして歌劇場を出て普通の人になります。そうやって精神のバランスを得て「理性的な市井の人」でいられると思っています。 ですからオペラは”荒唐無稽”であっていい、というよりそうでなくては意味がないと思っています。
さてさてオペラが長すぎてなかなか歌舞伎まで到達しません。明日は勘三郎を見に行きます。この続き(『源平・・・』)はその後にします。ごめんなさい。
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