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  § 中学 生時代の日記 §

 家の改築の際に物置を整理していたら、大昔の日記が出てきた。中学生時代をはさんで前後数年間の分で、いずれも粗末なノートにびっしりと文字が並んでいる。ちょうど、海の向こうの半島の国で、いくさが始まって、そのおかげで日本の経済が潤っていた時分のはずなのだが、日記を読む限り、ボクとボクを取り巻く人々の生活からは、あまり豊かさの気配を感じとることはできない。        

 もっとも、早逝した父親のわずかばかりの遺産を食いつないで生きていたわが家には、軍需景気も影響しようはずもなかったであろう。が、それにしても、文面に溢れているものは、庶民の、何ともつましい生活風景である。         

詮ずる所,そう思えるのは、当時と現在の豊かさを測る物差しの尺度が違うせいだとは、容易に推察できるのだが、つまり豊かさの「量的変化」によるのではないか、ということなのだが、さらに思いを進めてみると、行き着くところは、生活全体の「質的変化」であるような気がする。                  

日記の各ページにたち籠めて、かつての書き手を惑わせるのは、他ならぬこの質的変化である。つまり、その時代時代どうあることが豊なことであるか、という素朴な疑問である。
                              
                                      
《中学1年のある日の日記》                         今日は第三日曜日なので、近所の大人の人たちと横河川の上流の清掃作業に行った。朝7時に出発して50分ほど歩いて目的地に着いた。作業が終わってから川に入って岩魚つかみをした。3匹つかまえた。                  午後は友だちが来たので、一緒に地すがりの巣を見つけに行った。帰ってきて暗くなるまで畑の草むしりをして、最後にナスに水をやった。           夜は退屈なので『チボー家の人々』を読んで過ごした。                                                                                      

 
母子家庭ゆえに一人前に家の仕事に精を出し、そこそこの成績で母親にさして心配もかけず、貸し本(1日5円とある)を夜更けまでむさぼり読み、ピーピーなる並四ラジオをチューニングしながら『笛吹童子』だの『紅孔雀』だの『日曜名作座』に耳を傾ける。                             
 
そんな子どもの姿が、自分の過去の姿としてではなく、当時の平均的な子どものありようとして伝わってくる。
 読書やラジオで、果てしのない空想旅行をたのしむ。そこにはつましいけれど、無上の豊かさを感じとることができる。特に興味深いのは「退屈なので」本を読むというくだりである。何も与えられないから退屈になり、それを紛らすために何かと工夫を試みる。退屈な時間、無為に過ごせる時間を誰もが所有できた時代であった。                                    

多くの富を得て豊かになったとき、人は多くの退屈な時間を失って、同時に心の豊かさを失った。そして一番不幸なことは誰もそのことに気づいていないことなのかもしれない。
                                              

 
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