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           § オペラと歌舞伎(1) §       

 最近ソプラノのステファニア・ボンファデッリがヒロインとなるふたつのオペラを観た。ハンガリー国立歌劇場のどちらもヴェルディ中期の代表作『椿姫』と『リゴレット』で、この当代人気ナンバーワンと言われる彼女のいわば”おはこ”のオペラである。                               

  タイトルロールとなる『椿姫』の方は、高音が全曲を支配し、しかもほとんど歌いづめのこのオペラはそもそもソプラノ歌手にとってはあまりワリの良い曲ではないようだ。でボンファデッリだが、《ああ、そはかの人か》《花から花へ》と高音ののびやかさは快かったが重唱とともに全体的には精彩を欠いていた。もっともこれまでにも何度か観たこのオペラで「良かった」といえるものがない。そのほとんどの責めを負うのがヴィオレッタ歌手の様な気がする。救われたのは義父ジェルモン役のレナート・ブルゾンの情感深い堂々とした歌いっぷり(特に「プロヴァンスの海と陸」は素晴らしくしばし拍手が鳴り止まなかった)と、何と言ってもボンファデッリの美貌と役どころを心得た”汚れに秘められた清らかさ”を表現する演技であった。

 これにひきかえ『リゴレット』は「良かった!!」              ボンファデッリのジルダが歌う《慕わしき人の名は》はたぶんすごい難曲だと思うのだが美しく、鳥肌が立つような感動を味わった。リゴレット役(残念ながらレナート・ブルゾンではなかったが)、公爵役の歌手も力強く、いずれのアリア、重唱(このオペラは重唱が聴きもの!)も素晴らしかった。このオペラについて言えば好演に出逢うことが多い。登場人物の個性が明確であること、場面転換がわかりやすく、劇的シーンとそれに付随する音楽・歌が実に効果的に配されていることなど作品として成功しているからなのであろう。

  『椿姫』におけるヴィオレッタとアルフレードの出会いから恋に落ちるまでの必然性のなさはともかくとして、父親ジェルモンの個性が不明瞭で偽善者とも善人ともとれること、第2幕で怒ってやってきたジェルモンがほんのわずかの会話で誤解を解きヴィオレッタの理解者に変身してしまう不自然さなど気になる所はすべて、19世紀という「時代と社会」を一挙に冗舌に書きすぎた台本の未熟さに原因があるのかもしれない。                              なにはともあれ『リゴレット』のカーテンコールではオケピットまで歩み進んでスタンディング・オベーションをする私に、ステファニアがちらっと目をくれてしかも微笑んでくれたことで、世界が一挙に明るくなった満月の夜であった。
  
ボンファデッリの生地ヴェローナの野外古代劇場  この日の演目は《椿姫》

    今月はオペラの話で終わってしまいました。実はこのところ歌舞伎三昧なんです。オペラと歌舞伎、1600年初頭にルーツを持つ東西の芸術については是非次の機会に書きたいと思っています。

 
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