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§ ある中学教師の思い出 §

 話はちょっと昔過ぎる中学時代のこと。K大卒のその担任教師が赴任してきたのもその年だった。信州の小さな町の中学校へ彼がなぜやってきたのか。そのことをずっと疑問に思いながら、ついに尋ねることもせず、しかし私は彼に親しみ、彼を愛し、やがて終生の師と思うようになった。

 彼は多分自ら意図せずして私たちに実に多くのことを教えてくれた。友を大切にすることの意味を、書に親しむことの人生において有益であることを、あるいは遊びの心を、遊びを通して人生を味わうことを・・・。

 そのクラスに一人の問題児がいた。いたずらで暴力的でなまけものでみなから疎外されていた。しかし彼が実はことのほか素直でさびしがりやの子であることを知っていた仲間はどれくらいいただろうか。

 いつもその温顔に笑みを絶やすことがなかった担任教師の悲しげな表情を一度だけ垣間見たことがある。冬のある日の放課後。教室のだるまストーブをはさむようにして、教師と彼が黙って椅子に座っていた。学級委員だったからよばれたのかなと、後年になって思ったりもしたが、そのときはなぜその場に私が居合わせることになったのか合点がいかなかった。ただそのときの悲しげな教師の顔と発した言葉だけが鮮明に脳裏に焼きついている。『なあ、竹内。君にはこの子の良さがわからないか、分かるはずだ。友だちでいてやってくれ。友だちは君一人でもいいんだよ』

 教師はその一年、クラスの全部の男子生徒に四股名をつけ、川原から砂を運んで校庭の片隅に立派な土俵を作り、月110日間の「本場所」を行っていた。抜群に体格にすぐれた生徒がいて優勝はいつもその生徒だった。

その年の3月場所に私は初めて彼を誘った。彼は”本場所”に出場し勝利した。

私はいくたびか教師の官舎を訪ね、さまざまな興味ある話を聞き、読むべき本を与えられ、それ以上に彼の人となりに接して、有形でないなにものかを得た。

 彼はその1年間にすべてを燃やし尽くしたかのように次の年の春に郷里である東北の地に帰り電灯のない山の中での生活を始めた。不在地主であったことが理由とは後に知ったが、突然の出立に私たちは呆然とした。彼の乗った列車に友と同乗し、春の遅い中央線の駅を何駅もやり過ごし、もういい加減にここらで降りろと叱られべそをかきながら下車し、線路に伝わる列車の響きが消えるまでホームに立っていたことを昨日のことのように覚えている。

 後年私がこの地で開業して20年近く経った頃、突然その恩師が「歯の治療を頼むよ」と訪ねて来たとき40年の歳月を越えて信州の冷涼な空気が甦ったようだった。

「60,70というと年寄りと思うだろう。だけど本人にしてみると全然年寄りという意識はないんだよ。心はあの当時のまま若者だよ」恩師はそう言って破顔した。あの頃の屈託のない、慈愛に満ちた青年教師の頃と寸分変わらぬやわらかな笑顔であった。
 



            
恩師の訃報を聞いたのはそれからわずか数年後のことであった。 


    


 
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