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§ 病室で逢った二人の師 §

 大学4年の冬、ただ一人の家族であった母親が4ヶ月間の闘病の末死んだ。前年の夏休みにオーケストラの合宿の帰途母親が一人で暮らしている信州の家に立ち寄り、縁側に座って小雨の降る庭をぼんやりと眺めていると母親の後姿が目に入った。力なく歩いていた彼女の姿が雨の中でふっと消えた。おやっと思った途端に私の後ろから「洋平や、お茶がはいったよ」という母親の声が聞こえた。じゃあさっきのは幻か、と気味が悪かった。

 その翌日東京に戻った私は学生寮で「ハハタオレタ スグモドレ」という親戚からの電報を受け取った。すでに病室の人となっていた母の脇で私は4ヶ月の時を過ごした。しかし母はその後一言もしゃべることなく不帰の人となった。下顎呼吸を始めたとき私はいたたまれず外に出た。遠望する八ヶ岳が真っ白に雪を頂いている姿が美しい冬の日だった。

 葬儀を済ませ東京に戻ってしばらく経った頃から私は異常な感覚に捉われるようになった。目の前がすべて紫色に見え、大地が揺らぐようなめまいが頻繁に襲った。立っていても横になっていても、目を開けば世界は紫色であり、大地はぐらぐらと揺れた。激しい吐き気に襲われ、実際に何度か吐しゃした。

 4ヶ月の休学後の大事な時期に登学しないのを不審に思った友人が寮を訪ねてきて驚きその日のうちに付属病院に運び込んでくれた。

正気と狂気の境が見失われ、精神は澱んだ沼の底に沈み、世界は紫色一色だった。

 さまざまな検査が行われた結果、教授は怠け病だといい、若い担当医は教授はああ言うが私だけはわかっていると言った。しかし回復ははかばかしくなかった。

 6人部屋の病室にはさまざまな人生があった。向かいのベッドの左官職人は将棋が滅法強く病室仲間の敵ではなかった。沈み込む私相手に将棋教授をする方が面白いらしかった。飛車角を落としたくらいではいい勝負もできない私だったが、囲い飛車・やぐらなどのさまざまな戦法を学んだ。

 中庭に面した窓側のSさんはすぐ近くの本郷の住人で大学教授と聞いた。重い肝臓病らしいと他の仲間が話していたが、日常そんな様子は見えず、絶えず書見している姿が好もしかった。

 ある日Sさんは分厚い本を私の枕元に持ってきて「ここを読んでごらん。これはまさしく未確認飛行物体つまりUFOのことだよ」と真剣な顔をして話しかけてきた。書物は『古事記』だった。四国のある場所にUFOが舞い降りた記述がこれだよと目を輝かせて語り、聖書をはじめとする多くの書物の中のUFOについての記述を列挙していった。

 そしてもし病気が治癒してここを出られたら四国のこの場所に行ってみるつもりだ、どうだい、君も一緒に行かないか、きっとすごい発見があるよ、とまるで少年のように夢を語った。「青年に知恵があったら、老人に力があったら、というだろ?僕には君のような若い力が必要なんだよ。代わりに僕は君に知恵を授けるよ、大学で教えてくれそうにない知恵をね」と笑いながら言ったりもした。それは同室のよしみでのSさんなりの私への励まし方であると思った。

 1ヶ月間の入院生活で医学は私を救わなかったが、何ものかが私を現実へ引き戻す力となった。退院後も授業の合間にときどきその病室を訪ねた。しかし程なくして将棋の師匠が、そして新年を迎えることなくSさんが帰らぬ人となったことを知らされた。浅黒い顔の屈託のない笑顔が私をほっとさせてくれた将棋の師匠と、色白で芥川也寸志そっくりの顔で品の良い語り口が印象的なSさんのことは40年経った今でも不思議なくらい鮮明に覚えている。

 

 
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