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『障がい者』という表現と教養 §
のっけから余談で恐縮だが、私は何か文章を書くときでもほとんど参考資料というものを手元に置かないことにしている。もちろん引用する必要があるときは正確を期するために原本を調べることはあるが、自分の思考を邪魔されないためには何も見ないに限ると思っている。その結果として内容がお粗末なものになるとしたらそれは日頃の勉強不足の結果である。それに書きたいことの大きな流れみたいなものを失わないようにするには何も見ない方がいい。恥かしい話だが、あまり信念というものを持ち合わさない俗物としては、他を見ると自分が自分でなくなってしまうのである。というわけで本文も気の向くままの駄文とお心得戴きたい。
さて本題だが、テレビで「教養がないとはどういうことかというと、何か料理をしようと思って冷蔵庫を開けてみたが素材が何もないということだ」と言っていた。言い得て妙なりと思った。つまり私たちが生きていくには冷蔵庫の中身をまず充実させなければならないというわけだ。
ところで「本当の教養」というのは何かというと、とてもむずかしい。単なる知識などではないことはもちろんだが、生活の智慧などともちょっと違う。全人格的な深みみたいなものと思うのだが例えば、というのがなかなか出てこない。
私の知人に知的障害のあるお嬢さんをもったご夫妻がいる。『知的障害』ということばの使い方からして慎重であらねばならないのだが、ここではお許し願って通常使われているように表現させていただく。このご夫妻はお嬢さんを含めた複数の障害を持ったお子さんたちのためにいわゆるグループホームを運営している。そしてNPO法人『海から海へ』(http://umi.or.jp)を立ち上げて天才的な画家でもあるお嬢さんnの作品を展示する美術館の建設を目指している。
前述の『教養』に絡めたお話だが、このご夫妻が「障害者」を文字で書くとき必ず『障がい者』と表現する。私は差し障るという意味を示す”障”の字も”しょう”で良いと思うのだが、それでは表意文字を誇る日本語の役割を果たせないので、表意できるぎりぎりの表現として『障がい者』とされているのであろう。意とするところは歴然としている。実は私はこのご夫妻こそ本当の教養ある人だと日頃から思っている。節度をもちつつ節を曲げず、美しい日本語を守りながら、命がけの真剣な闘いを続けていらっしゃる。教養というのはそれが遊びの範疇にあるうちはあまり重いものではないと、思わず考えてしまう。
障がい者(私は”しょうがいしゃ”を”障がい者”として単語登録をしているので”障害者”と書くより早い)といえばちょうど今調布市の障がい者のための歯科診療所である小島町歯科診療所で治療に当たっている。所長を務めた二年間を含めてもう十年以上携わっていることになるが、いまだに新たな発見と反省と感動の日々である。健常者(という言い方も反省の余地がおおありだが)の治療では与えられない感動がある。付き添う家族の方の明るさはそれがごく自然であるだけに感動的である。自分たちはなんと感動の少ない毎日を送っていることか、と慨嘆することさえある。
先年ドイツを車で旅したときオーストリアの国境にあるグロスグロックナーの山を若者たちが自転車で次々と登っていく。中に車椅子の若者がいる。必死で車輪を手で漕いで登る。急坂になると誰ともなくこの車椅子に手を貸す。いい加減すると後頼むよと別の若者に委ねる。この一連のことがごく自然の流れの中で行われている。レストランや劇場の駐車場は半数近くが障がい者に優先される。どの駅にもスロープが完備されている。
社会的な施設整備は当然だが、「老人優先席」と書かなければならない国民の、まさに『教養』の不足の打開こそ、もって焦眉の急、と言えるのではないか。
グロスグロックナー山
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