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     § カルテット § 

 弦楽器の演奏歴はかれこれ五十年になるが、別に英才教育を受けてきたわけではないから腕前は知れている。小学校の学芸会で合奏があるというので、いつになくヴァイオリンをさらっていたが、本番の一週間前に指揮者をやれと言われ意気揚々と棒を振ったが、後日あいつはうまく弾けないから指揮に回されたらしいという陰口を耳にして以来演奏に関してはずっとトラウマとなっている。

 が大学時代にオケが結成されると聞くや、当時吹いていたクラリネットを手放し、ヴィオラを買い込んで参加して以来市民オケで三十年近く弾いていた(兼団長)ことを思うと、好きというものは上手下手には無関係らしい。

 五十年の体験から言うとオーケストラの団員、というより楽器をやる人間には変わり者が多い。まあ変人というのが言い過ぎであるとしてもとにかく何かと主義主張が多く、常識的な付き合いができない人間が多い。八十人に及ぶオケを束ねていて厄介なことは常に人間関係にあった。自分の演奏や音楽に対する思い入れは誰もが持っていてそれは大変結構なことなのだが、付き合い全般にわたって(会話にしても共同行動にしても)気安くスムーズにはことが運ばないのが通例だ。

 それで、ということで話は続くのだが、オケをやっていると大抵は室内楽をやりたくなる。
特に弦楽器をやっていると、管楽器の音色そのものが不純に(というか澄んでいない)と感じてしまい、とにかく弦だけでアンサンブルをしたいと思うようになる。(ただしこれは私見かもしれないので管奏者の方、悪しからず)弦楽アンサンブルと言っても一番手っ取り早いのがカルテット(四重奏)だが、たった四人とは言え(というより四人だけだから)、そのためのメンバー選びがなかなか難しく、誰もが自分よりは上手いヤツとやりたい。そいつはさらに上手いヤツとやりたいからこの辺りの調整は厄介だ。
 
 ようやく立ち上げても大抵ひとのアラばかりが気になる。すぐ喧嘩になる、解決しようとして話し合いになる。弦楽四重奏団が「衒学始終相談」とあだ名されるゆえんだ。
 第一ヴァイオリン(ふつうトップと言う)は一番目立つメロディを弾くのでとにかく音程が寸分でも狂うとほかの三人は途端に眉を顰める。
 チェロはリズムの基本になるのでチェロの刻みに乗せて息を合わせるところだが、たとえ十分の一拍早くても遅くても息が揃わなくなる。そんな時は三人はちらっとチェロの方へ「ん?」てな目をやる。
 第二ヴァイオリン(セコバイまたはセカンド称する)とヴィオラは一見気楽そうだが、上と下(配置的には右と左)への気配りを怠って音程に狂いが生じると、途端にトップが弾く手を止めて、軽い溜息をつきながら〇〇小節からもう一度行こうかなどとのたまう。

 そうこうしながら妥協と許容の寛容の結果とにもかくにも〇△四重奏団が立ち上がる。
 さあいよいよ選曲の段階に入る。ここから必ずひともめする。それぞれが自分の弾くパートに華がある曲を弾きたい。したたかなのはチェロ弾きで、例えば第二楽章辺りに美しい旋律が含まれる曲をさりげなく提案する。それを察知したトップがチェロの実力を見極めたうえで「最初に挑戦する曲は『雲雀』(ハイドン)辺りから始めよう」などと宣言する(誤解のないように、決して易しい曲ではない)。間違っても『ラズモフスキー』(ベートーヴェン)などの誘いには乗らない。まあすべてこんな調子だ。
 そこで楽譜購入となるのだが面白いのは大抵の室内楽のライブラリアン(楽譜係)はヴィオラ奏者らしい。これは和洋を問わずプロの四重奏団でもほぼ同様らしい。(この小文で言っている“カルテット”はもちろんわれわれアマチュア集団のことだから念のため)

 私が長年受け持ってきたヴィオラパートは中音域を受け持つがメロディラインはむしろ低音域のチェロの方に多くあらわれ、ヴィオラには和音を中支えする曲が多い。そういう中支え根性が楽譜係に向いているというのが一般的な見方で、だからヴィオリストには世話好きの人間が多い。この伝でいくとトップは仕切り屋型、セカンドは寄り添い型、チェロは唯我独尊型と推量されるが、これがなかなか当たっていて、人を見てパートを当てるのは大抵ドンピシャとなるので結構楽しい。
 
 で私だが数年前長年の伴侶であるヴィオラをケースに閉じ込め、チェロを弾き始めた。カルテットやクインテットで地味な中支えは御免となるうえ、チェロには独奏曲が多くあり、特にバッハの『無伴奏ソナタ』(全六曲)はチェロ弾きなら誰もがものしたいと願う名曲で、しんどいエチュードに日夜飽きもせず向き合うのは、ひたすらバッハを自在に弾きこなせるようになりたいからである。不思議なことだが、そうなってから私のライブラリアン根性が薄められ唯我独尊型に向かい始めた気がする。

 もっともチェロに転向してからはカルテットへの誘いはまったく来ない。そりゃそうだ、初心のチェリストなど値踏みの対象にもならない。目下は正真正銘の唯我独尊の道を歩んでいる。