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§ ジオの世界  §


都会ではテレビ時代の胎動が感じられ始めていた昭和二十七、八年、まだ信州の田舎町では子どもたちの家の中での娯楽といえばラジオであった。草野球に夢中になっていても大抵の子どもたちは夕方六時を過ぎると家路につく。毎夕六時半から始まるNHKのラジオドラマ『新諸国物語』を聴くためである。

 今の大河ドラマと同様一年一作だが善の白鳥党と悪のされこうべ党の時代を超えた戦いを描くシリーズドラマであった。第一作の『白鳥の騎士』に始まり『笛吹童子』『紅孔雀『オテナの塔』と続いた。シリーズはさらに数年続いたが学齢が進むにつれて急速に興味は薄れてしまったのでその後の作品についての記憶はない。 

このドラマの人気が高かったので数年後まず『笛吹童子』を東映が映画化した。当時の人気俳優東千代乃介と中村錦之助が主役の萩丸・菊丸の兄弟に扮した。しかしこの映画は結局見なかった。小遣いがなかったからだが、映画看板に馴染めなかったためでもあった。映画自体がカラーであったかどうか記憶はないが看板はきらびやかな色彩で描かれていた。それが自分がラジオドラマを聴いて思い描いていた世界と余りに違って華やかに過ぎ、反面せせこましく描かれていて何とも受け入れ難かった思い出がある。

テレビ時代となってもラジオはよく聴いた。中でも森繁久弥・加藤道子の淡々としたダイアローグに魅せられて『日曜名作座』は欠かさず聴いた。いずれの物語からも映像が眼前に鮮やかに浮かび上がり想像の世界は無限に広がった。

芭蕉に「宗祇の連歌におけるもの、雪舟の絵におけるもの、利久の茶におけるものの、その根底を道として貫いているものは一つなのだ」という風雅について説いた言葉があるがその一つとは何か。自分流に解釈すればそれは“モノクロームの世界”ということだ。

あるいは主宰の言う「言葉はやさしく思いは深く」とは「表現はモノクローム思いはフルカラー」ではないかと思う。

ラジオの『新諸国物語』が聴く者に無限の空想を許したように、色や形や音色などの説明は一切なく事実だけを、あるいは物だけを言葉で伝えることこそが、雪舟が墨だけで描くことと同様に、それぞれが作り出す世界に無限の広がりと可能性をもたらしてくれるのである。

そう言う意味ではラジオが唯一の楽しみであった時代の方が、物や情報が過剰にあふれる現代よりもはるかに心豊かであったと言えるかもしれない。
 

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