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     §解剖学実習室 § 

六十年安保闘争が学生たちの独り相撲だったかのように虚しい結末で終わった翌年は一年中解剖実習室に閉じこもっていたような錯覚を覚える。現実には基礎医学の様々な講座があって階段教室で眠い目をこすりながらノートを取っていた時間があり、ちょうど立ち上げたばかりのオーケストラに打ち込んだり、週の大半の夜はアルバイトに費やしていたはずなのだが、昭和三十六年に限って言えば記憶にあるのは「解剖実習室」だけなのである。

その献体に初めてメスを入れた時の畏怖と眩暈の感覚は今でも忘れられずにいる。その人の生きて来た過去を一切知らず、語りかけることもならず、黙々とメスとピンセットを使い続ける行為は自分でも信じられなかった。人体解剖は宗教を意識させたが、不思議なことに命の尊さといったことを考えるきっかけとはならなかった。それを考えるようになったのは臨床を学ぶようになってからである。

しかし感覚も思考も麻痺し始めるのに多くの時間は要さなかった。人体のあらゆる組織(臓器、骨、筋肉、神経、血管などなど)のすべてをピンセットで確認し、その名称をラテン語と日本語でノートに記載するという途方も無い作業を繰り返すうちに、いつしか目の前にはかつて命を持っていた「人」ではなく、学ぶ対象の「物」があるだけになっていった。そうした学習が左太腿に「女一心」と記された刺青を目にした時だけがその人の人生に触れた唯一の機会だった。翌年の築地本願寺で別れの時を迎えるまでついに命というものを考えることがなかった。自分の無思慮、非情を悔いるにはあまりに遅すぎた。「昭和三十六年」は前年に続く消し難い、そして消し去りたい年としてあり続ける