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§ 国際化またはグローバリゼーションのこと §

休暇をいただいてインドネシアのバリ島とロンボク島へ旅してきた。そこで感じたことを書いてみたい。
 もっとも強く感じたことは、またしてもわれわれ日本人の生活が豊かというより過剰に浪費しすぎているのではないかということである。何の資源もなく物を売って稼ぐだけの国が今のままの贅沢な生活を反省もなく続けていてよいだろうか。旅をした彼の地の人々のつましい生活ぶりを、私は決して貧しい生活とは感じなかった。むしろ分に相応した生活に十分満足して幸せそうであることに敬意さえ抱いた。町というより村を通り過ぎるわれわれに一人無しといっていいほどのおとなや子どもが手を振ってハローと大きく声をかけてくれる。その人々の笑顔がさわやかで素敵だった。


      






 
凧あげに興ずるこどもたち

 
 米を作り牛やニワトリを飼い素朴な家に住む人々にはわが国に吹き荒れる”国際化”志向などというものは無縁のようだ。どうして日本人は国際化を求めるのだろうか。いや日本人が求め続ける国際化とは何なのだろうか、とふと考えた。欧米化することが悪いとは思わないがそれなら欧米の文化をしっかり理解して受け止めているかというと必ずしもそうではない。経済力で肩を並べ追い越すことが国際化であるわけがない。真の国際化というのは文化の交流ではないか。欧米に限らず、独自の文化を守り育てている国ともしっかりと交流することも欠かすことができない国際化への道のひとつであろう。『国際化』は『グローバリゼーション』と訳されることが多いがそもそもグローバリゼーションというのはアメリカなどの経済強国が自国の影響力を世界に広めようということである。そういう意味ではわが国は古くは中国、近くはアメリカから”グローバリゼーション”されっぱなしである。それがすべて悪いわけではないが、なんでもアメリカ追随みたいな姿勢はそろそろ捨てることにしないと、赤字国債で国が潰れるより早く日本文化そのものが消滅してしまいかねない。
 かの国で聴いた素朴な楽器で奏でられる音楽には私たちの琴線に触れるものがあった。ブラームスやベートーベンよりも日本人の心を揺する音楽が別のところにあるかもしれなかった、としたら音楽教育の出発点(それはすでに邦楽を排除した時点で大きな誤りを侵していたのだが)まで立ち返らなければならないことになる。そうした過ちがあらゆる面で見出されるとしたら、面子も何もいらないから国家を挙げて総点検を始めた方がいい。
 インドネシアの一部ではカーストの最下層の人々の間には長男にはワヤン、次男にはマデ、三男にはコマンと名づける習慣があるそうだ。どうりであちこちでこれらの名前に出会った。家は末子が継承するという。そうした習慣や制度を耳にし、そこに根付く文化に接するとき、自分がいかに狭隘な世界に安易に生きているかと言うことを痛感する。自分こそ真の国際化に向けて努力をしなければと思わせてくれた旅であった。

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