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 § 50年目のクラス会 §

              
 
06年12月のはじめに卒業後50年にして初めての中学校の同年会があった。昭和31年すなわち50年前の1956年3月私は信州の小都市岡谷の中部中学校を巣立った。岡谷は市になる前は平野村と称する全国一人口が多い村だった。 製糸業(生糸産業)で一世を風靡し、当時でもまだ出歩けばどこからも”さなぎ”のにおいがしていた記憶がある。友だちでもお大尽の子弟の家はたいていが製糸業にからんでいた。
 余談だが私の父親は発明好きだったらしいが、長年の貧乏生活の後の晩年近くに、繭から生糸を産じてのち,糸にできずに捨てるばかりになった残りくず(まぶし、というらしい)を壁材料に混ぜ込んでソフトタッチの『真綿壁』を作ることを考え出し、これで特許をとって、ついに財をなすまでになったらしい。もっともその富を享受する間もなく世を去ってしまった。
 岡谷は製糸業の衰退と相前後して精密機械工業のメッカみたいになって『東洋のスイス』と豪語するようになり、文字通り時計やらカメラの工場が軒を並べるばかりになった。
 久しぶりに帰った岡谷の町は、しかし胸を塞がれるほどに寂れて見えた。あの頃広々と見えたメインストリートは、今私が住む家の近くの裏通りほどの幅しかなく、一瞬道を間違えたかと錯覚した。聞けば人口は年々減る一方であるという。20万人が住む調布市に居ても”田舎町”と思っている私からすれば、5万人の町がそう見えるのもしかたがないかもしれない。
 クラス会は地元に住む同年生たちの努力で実を結んだ。どこかにも書いたが私はとことんに"クラス会嫌い”である。昨年卒後40年目の大学同窓会に出るまでは毎年催されるクラス会には一度も出席していなかった。
 しかし今回出席する気持ちになったのには,自問した結果によれば4つほど理由と思われるものがある。まず50年という節目を見逃すと次はなかろうという思い(100年はもちろんないが、60年にも自信がない)。次がここ数年の間に、当時から仲が良かった同級生が相次いで鬼籍に入ってしまったこと。その報を聞くたびに、会っておけばよかったという悔恨に苛まれた。これ以上悔いを残してはいけないという思い。三つ目がまだ現役で働いているとは言え個人的(子どもの教育とか)にも社会的にもひと通りやるべきことはやったという”義務と責任からの自己放免”。最後が自分でも信じられないのだが”郷愁”、より具体的にいえば”あの頃の友だちに会いたい”という切ないような思い、である。

 さてその日。5クラスで70余名。E組と称していた私のクラスから男女合わせて20名。これはすごいと思った。幹事諸兄の懸命な努力のたまもの以外の何ものでもない。ひたすら感謝!
 私にとってはほとんどが50年振りに会う面々。会っての感想。男はみな良い顔をしている。先年の大学同窓会の時の感想はまちまちだった。ふけすぎた顔、くたびれきった顔、まれに”良い顔”・・・・。
 その違いは何故か。大学の方は私の64歳を最低に75歳過ぎまでの幅があった。そしてほとんどが職業柄まだ現役のためくたびれきっている。ところが今回はみな65歳。そして人生での大仕事を終えたばかり、まだ自堕落に陥ってもいないし、怠惰に過ごすでもない。もちろん痴呆には程遠い。今までやりたくてもできなかったことを好きなだけできる満ち足りた年令。実際有名企業の要職を国内外でこなしてきて全身に背負ってきた重荷から解き放たれて、地域の自治会でボランティアをしたり、陶芸に打ち込んだり、著作に励んだり、という話があちこちから聞こえてくる。ゆったりとした日々の中の充足。良い顔になるわけだと思う。
 
 そして女性たちもみなはつらつとしていて、つくづく65歳というのはまだ『年寄』には分類できないと思った。実は出かける前は、かつての美少女達の変容振りにがっかりしないためにも女性の方は見ないようにしようと思っていた。実際にあまり見なかったが、まぶしくて見られなかったに過ぎない。そうか65歳くらいまでは生き方によってはこんなに美しくていられるのだと感じ入った。もっと話していれば彼女たちが男以上に長い間心の充実を核にして生きてきた様を教えられたのかもしれない。
 不思議なことだが当時思いを寄せていながら小心のゆえに近づけないでいたクラスメイトにはあの頃と変わらない小心さがよみがえって近づき難たかったりした。
 ○さんのゆったり口調としっとりとした佇まいは昔も今も僕の琴線に触れる。ちょっとおしゃれで大人びていてクールさが素敵だった□さん。ふたりとも小心な少年がひそかに恋心を抱いていたことなど知るまい。淡々とした話し方でいたずらっぽい笑い方が魅力の△さん、チャーミングさを失っていないXさん。同級生といえば最初に思い浮かぶ理知的で聡明だったあのお二人・・・。みんな表情、笑顔、口調など少女時代とまったく変わっていない。 

 さらに感激したことは担任教師であったH先生との再会であった.79歳とうかがって当時まだ29歳だったことを知った。15歳の少年からは40歳くらいに見えていたような気がする。スピーチでは故人となっている同僚のF先生の思い出話などとともに、昨年直腸がんの手術を受けた体験から、がん検診の必要性を力説されるのだが、話したい思いが強すぎて説得力を持たせるような言葉を選ばず熱弁に走る(だから”生徒”は傾聴しない)ところなどは50年前と少しも変わっていず、むしろそのことがみなを感動させたりした。
 私がなにかの議長をしているとき「賛成多数、従って可決」としたところ、「竹内や、反対の人数も数えろや」とおっしゃったのに対し、「数えなくても分っているからこれで良いでしょう」と反論したとたん、校舎を揺るがす大音声で”バカヤロウ!!!”と怒鳴られましたとお話したところ、「全然覚えてイネえな、今なら偉い(えれえ)ことだな」・・・・。

 クラスから隣接の町の高校に進学する予定だった私を含めた3人を「日本刀・カミソリ・なた」の三つの刃物になぞらえられて、「なたに喩えられた僕はそれがトラウマになったようにしばらく立ち直れなかった」と先生を挟んで”日本刀”のN君と思い出話をしたりした。一泊した翌朝”カミソリ”のY君の仏前に先生とN君とともに花を奉げたときは悲しみとともに甘酸っぱい感慨が胸をよぎった。


 写真は中学卒業の日=昭和31年3月(中央右が担任のH先生、左はO校長先生。最後列右端が私)
 クラス会の日の写真は全員の了解を得ないと掲載できない(個人情報保護のため)のが残念だが、50年前の写真は、"時効”と勝手に判断して掲載させてもらった。ちなみに全員の名前を覚えている。
(写真に写っている方はここをクリックすると名前とその他の写真が見られます。その際パスワードはH先生の苗字を半角ローマ字で入力してください.パスワードを間違えて入力するとタイトルページに戻ります。その際はもう一度エッセイページから入りなおしてください。)
 思い出の中学校はその後中学統合によって廃校となった。


 
「郷愁」は程ほどに満たされはしたが、もう一度あの頃に戻りたいという切ないほどの願いは決して果たされないことを実感した一夜でもあった。
 その後何人かの同級生から便りを頂いた。H先生からは早逝したU君の臨終の様子を記したお葉書を頂いた。前述の○さんからは「出かける前は不安な気持ちで出席したけれど同級生の笑顔で私もアッという間に仲間入りさせてもらった。懐かしく嬉しい再会となった」、□さんからは「長い人生の中のたったの3年間に過ぎないのにどうしてこんなに懐かしく嬉しく大切なのか」というお便りを頂いた。

 思いは決して私だけのものではなかったと知った。

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