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§ ”白寿”の義父と”卒寿”を超えた義母のこと  §



 
つい先日妻の父が”白寿”つまり99歳を迎えた。信州の伊那の里の中学校長を最後に定年退職するまで教師一筋の道を歩んできた。結婚したのが36歳で、したがって4人の子どもは比較的遅くもうけたので私が妻と出会った頃は既に職を辞していたからその仕事ぶりについては伝え聞くことしかできなかったが、すこぶる正義感に燃えた生一本の教師だったらしい。
 

 1930年代といえば昭和初期だが日本の農業が凶作などで立ち行かなくなった頃と相前後して、満州事変が起こり(というより日
本が戦争を起こし)、占領した広大な満州の地を開拓するために国策として「満蒙開拓団(満州農業移民)」を送りこととなった。後には分村移民と称して村の三分の一を家族ぐるみで送り込むような事態ともなった。そのいずれの時期かは分らないが、結婚前の若い教師であった義父はその意図の裏に潜む危険を感じとって教え子たちのために体を張って反対運動を起こしたと聞いている。この辺りのところをもっと詳しく聞きただしたいのだが、近年義父は義母や末娘をはじめとする家族たちのもっぱら介護の対象となっており遅きに失した感をぬぐえないのは残念である。
 

 
義父は私が初めて出会った頃からきわめて寡黙な人だったが、ぽつんと口にする一言には重みもあり味わいもあった。他人のことなど気遣わないようでいながらその実思いやる気持ちは人一倍で、たまにかけてくれる声は滋味に溢れていた。
 早くに父を喪くした私はいわゆる母子家庭に育ったが、通常いわれるような母性への依存性向はまったくなく(むしろ自分は老いた母の父親的庇護者であると自覚していた)、その代わり父性への憧れが強くあった。その憧れの性格についてはかなり厳密に分析された具体的な欲求が伴っていた。がそう多くのことではなく、その父性への憧れのひとつは多分天与の自分の性格ともいえる「優しさ」であった。つまり父たる者は”自分のように”優しくなければならなかった。そして決して傲慢であってはならず、謙虚にして常に寡黙であらねばならなかった。義父はそのすべてを併せ持っていた。

 一方義母も年下とは言え既に齢93歳であるが、格別持病もなく、むしろ頭脳は驚くほど”健康”で、記憶力などは最近物忘れが多い妻(つまり娘)をはるかに凌ぐ。やはり若い頃教師を務め、特に日本文学への造詣が深い。最近はどうか知らないがつい1〜2年前には同窓会で『方丈記』の一節を暗誦にて披露したそうだ。たぶん『源氏物語』研究は今でも続けていることだろう。一驚に値するなどのレベルではない。
 また他人を思いやる心は義父に勝るとも劣らずで、いつも相手の立場を斟酌しながら、ゆっくり言葉を選んで話しかけてくる。聡明な人である。
 義父は若い頃から鍛えた頑強な体で、義母は培ってきた教養で年齢を感じさせないまま齢を重ねてきたのは、まったく恐れ入りました、というしかない。
 
 そこで最近つくづく思うのだが”年をとる”ということは、暦(こよみ)上の年齢ではなく努力によって限りなく先送りできるものなのではないか。世の様々な人々の生き様を見るにつけこの思いは強くなる。
「同窓会」というのを私は徹底して好まないがその主たる理由はその中に浸かるや否や昔話の世界に入ってしまい、おおかたは(この年齢では)未来への展望などという話には決してならないから、家に帰ってから復元するのに時間がかかってしまうからだ。
 
 いきおい日常生活の拠点は仕事や若い人たちとの交流(私の場合はオーケストラ、なにしろ80人の仲間の大半は20〜30代の若者である)に求め、思考の拠りどころは本や芸術の世界に求めることになる。精神の賦活には旅行などは最高である。
 
 義父母の来し方を思うにつけそんな感慨を抱くこの頃である。


 
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