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  ウンブリアの旅

国際運転免許証を申請する際に、いつも「これが最後の申請になるかな・・」と思う。にもかかわらずイタリアはウンブリア州の山の中に宿をとるとなると、車なしでは動きがとれない。別に戦地に赴こうというわけでもなし、彼の地の道路は一般道にあっても日本より広く田舎道のカーブにもバンクが施されていたり、交差点は何処も見通しが良くてきわめて合理的な約束事が守られているし、道路標識は運転者が望む場所に的確に配されている。まだ日本での運転技術に関してはA級ライセンス並とは自他共に認めるところ?だし、自信を持って快適なドライブを思い切り楽しもうと決めて、でかけることにした。そこで彼の地の地図をアマゾンで検索したら300円で手に入ることになったが、届いたのは帰国した翌日だった。笑わせる。

地図なしで出かけたから何が起こったって文句は言えないが今回は無事故で終わった。ローマから列車で1時間半ほど北へ向かったところにある旧都オルヴィエト。ここはなにしろローマ人(という人種がもともといたわけではないが)よりずっと前にイタリア半島に住みついたエトルリア人が築いた町のひとつだ。旧市街は他のイタリアの町と同じで小高い山の上にあり、フニクラで登る。

たとえば「デカメロン」の作者として有名な(そしてそのほかのどの作品によっても知られていない)ボッカチオの生地として有名な小邑チェルタルドなども同様で、フニクラで登った先の風情は旅人の私から見ると同じ町の続きかと錯覚を起こしてしまいそうなほど似ている。

余談だがイタリアの歴史はそのままローマ教皇庁と世俗皇帝(主として神聖ローマ帝国の皇帝で、ドイツ人であったことが多い)との権力闘争そのものであったと言ってよいが、歴史を読み進むと凄惨な戦いと醜い裏切りと残虐な処刑などがいやというほど現れ、その様はとても源平の争いの比ではない。他民族による侵略,支配がなく、宗教戦争がほとんどなかった日本の歴史はおとなしいものだ。もっとも同じ西欧でもイタリア半島の歴史には格別のものがあるが。

オルヴィエトの旧市街へは一度車で行って懲りている。街は狭い一方通行の道が迷路のようだ。私が住んでいる佐須の道も深大寺城下町であったため、武士がすれ違うとき刀が抜けない程度に狭いが、エトルリア人の道が狭いのも馬二頭は通れない狭い道ばかりだからもしかしたら同じ理由かもしれない。

    

 

旧市街の中心にあるドゥオーモのファサードの美しさはイタリアの中でも随一といわれる。レンタカーのハーツの可愛い女の子に「この前来たときファサードは化粧直し中で見られなかったが、今は大丈夫か」と二人掛かりで尋ねたが通じず弱った。身振り手振りで何とか意を通じさせて、最後は美しい顔を破顔して「ノン、ノン。オーケー、オーケー」という答えを引き出した。

オルヴィエトに別れを告げて、車をハーツの彼女から聞きだしたローカル色あふれる田舎道をひたすらTodiに向かって走らせた。高速道を避けたのでどこまで行ってもくねくねとした山道で、2速ではエンジンの回転数がやたら上がるし、3速にするとエンストしそうになるし、2.5速があればいいのに、などとつぶやきつつ、やがて車は左手に延々と続く湖を見ながら、ウンブリアの古都のひとつTodiに近づく。

ウンブリア州はイタリアの中南部に位置し「イタリアの緑の心臓」と呼ばれる。州都は中田が最初に属したペルージャ。鉄道開発の波に大きく取り残されたのが幸いして、広範囲にわたってエトルリア時代の森を残していると言われるウンブリア。

 

オルヴィエトから40キロほど走り、山の上にTodi の美しいシルエットが見えてくる辺りから左に折れ、さらに山道を突き進むとDoglioという小村を抜け出たところ、目指すFattorio di Vibioにたどり着く。

トスカーナ、ウンブリアをはじめイタリアの国内各地には“アグリツーリズモ”の宿が点在する。これは国が国策として始めた観光事業である。ブドウ農家などの家をホテル仕様に改築して外国からの客を中長期に滞在させ観光収入を得ようと言うものである。

前回はオーケストラ仲間3人とトスカーナのポジボッシに滞在。宿の主人夫婦のつくるトスカーナ料理を味わいながら、まったく家庭的雰囲気の中でイタリアの各地やドイツや東欧からの客と朝晩の食卓で会話を交わしたりトスカーナワインを飲み交わしたりしたものだ。ルフトハンザのパイロット夫妻には車の調子をみてもらったりもした。その旅ですっかり味をしめた。もっともその旅は自己との葛藤の旅でもあり、ふらつく自分に潔く決着をつける旅でもあった。

  

    

 

今回のウンブリアの宿は前回の旅仲間の女友だちから借りた本で知識を得て、ネットで情報を交わして決めたワインと食事、そして周辺の山の散策、室内外のプール、リラクゼイションのためのアクアジムやフィットネス施設が売り物のアグリツーリズモである。

     橋ではなく道路です

 

 この家のお母さんは料理の名人で滞在客相手に料理講習会もある。ハンサムな二人の息子のうち弟のジュゼッペがもっぱら世話をしてくれる。兄のフィリッポの方は週末の客が多い時にだけ手伝いに顔を出すらしい。外仕事が専門のようだがワイン講習会をするのはこの兄の方で、食事の際のワイン選びも手伝ってもらった。二人とも愛嬌があって明るくいかにもイタリアの男という感じ。英語はジュゼッペが少し話せるだけだから、明日はどこかへ出かけたいがなどと相談してもなかなか容易には結論が出ない。 

 

        ジュゼッペと

 

ワインの話だがウンブリア州にもモンテファルコなど有名なワイン産生地がたくさんあっていずれ劣らぬ名品であることが今回分ったが,この家の食卓で示されるワインリストにはウンブリアの項に“モンテプルチアーノの赤”などと記載されている。前回の旅はくだんの美女がワイン通(?というより単なる“呑んべえ”だったのかも。とにかく“葛藤”最中の僕には何も見えなかった・・・)だったのでまるで“ワインの旅”みたいに飲みあさったが、モンタルチーノだのモンテプルチアーノなどは日本のレストランではうっかり注文も出来ないほど値がはる逸品であることを知った。(それでも飲んだ!運転手の僕はもしかしたらワリを食ったのかもしれないが、とにかく“葛藤”中でしたから・・・)そこで最初の夜はウンブリアに来ながら申し訳ないが、日本では飲めないからと“モンタルチーノ”を注文。ところが運ばれてきたボトルのラベルには少なくともモンタルチーノとは書かれていない。半信半疑でフィリッポの顔を見上げると、これがウンブリアのモンタルチーノだよ、本物より本物に近いとのたまう。もっともその英語は今では思い出せない。それはつまり日本のスイス、東北の京都の伝で、”モンタルチーノ“の名を拝借しているのだった。しかし味は逸品、舌尖に感じる程よい渋み、歯周ポケットで感じる快い刺激、鼻腔をくすぐるブドウの香り、頬粘膜にいきわたるまろやかな液体の重み。モンテファルコにはぜひともいかなくては・・・。ということで翌日は越えて中世の都市スポレートへ、そしてもうひとつ山を越えてこのワインの名産の町を訪れることとなった。

   

   

 

 朝晩の食卓はいつもLagers夫妻と一緒になった。多分年齢が近くすべてのペースが似ていたからだろう。朝食は9時前、夕食は8時過ぎ。約束したわけでもないのにいつも隣り合った。アッシジの聖フランチェスコ寺院では『夕陽のマドンナ』の前で出くわした。

このご夫妻はポーランド人だと家内が言うので、ヨハネ・パウロ法王の逝去を話題にして立派な方でしたと誉めたり、ワレサやグダニスクの話しをしたり、去年見たポーランド歌劇場の“ドン・ジョバンニ”を持ち出したり、夫人が庭のテーブルに置き忘れた書類をジュゼッペに「ポーランドのご夫人の忘れ物」だといって届けたりした。しかしどうもはたで見ていると快活なご夫妻の対応がもうひとつなのと、ジュゼッペが「わかった、渡しておく」とは言わず怪訝な顔をしていたのが気になった。決定的だったのは最後の晩、話が「私たちの国は王国なので」というくだりに及んだ時である。コーヒー(この地ではコーヒーとはエスプレッソのことで、希望がそうでないときはカプチーノを注文しないといけない)を頼んだ所で思い切って、ポーランドが王国とはきいたことがない、あなた方はホントにポーランド人かときいてみた。答えは意外なものだった。「ポーランド?私たちが?私たちはホランドから来たんだ、ポーランドじゃないよ」。 (笑い 笑い 笑い・・・・・・・・・)

 

  最後の晩はLagerご夫妻と食卓を共にした

ご夫人は医学者、彼女の弟はDENTISTでした・・・

 

 滞在中は周辺の山を歩いたり庭先でまどろんだり、モンタネッリの「ローマの歴史」や藤澤道郎の「イタリアの歴史」を読んで過ごした。早朝から大合唱といえるほどの鳥の鳴き声を聞いて安らいだり、夜はまさに“降るような”星のもとで深呼吸を繰り返した。

 

 

  ある一日は州都ペルージャを訪れ、アッシジまで足を延ばした。州都といいながらペルージャもエトルリア時代の名残さえ残す静かなたたずまいの町だった。妻はこの旅でもっともこの町に惹かれたという。

 アッシジは聖フランチェスコの町。棺に寝姿のままの彼の遺骨を目にした時はこの清貧の聖人が確かに実在したことを確信でき、改めてその偉業に思いを致した。彼を追って僧となった聖女キアラとともにアッシジの町は彼ら二人一色に彩られた町であった。

 

    

 今回の旅ではシエナ、フィレンツェ、ピサなどを訪れ、中世からルネッサンスの時代の建築・絵画に触れることができた。ウィフィッツでは丸一日過ごした。サンマルコ寺院ではサヴォナローラの足跡をたどり、フラ・アンジェリコの一連の作品の前に長いこと佇んだ。テアトロ・コムナーレでは「トスカ」を観た。ズビン・メータの演奏が余りにすごくてオペラコンサートみたいだった。「トスカ」は前の旅の“葛藤”を思い起こさせ、良い選択ではなかった。忘れること、思い出さないこと、切り捨てること、そういうことは人間のわざの埒外であるらしい。にもかかわらず忘れる旅はこれからも続けるということなのか。そのためにこそ旅があり、だから生きる意味があると言うことなのかもしれない。

スポレートで

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