§ 亡き友に捧げる・・・(2007.9.12)
§
6年間がんと向き合ってきた友が静かにその戦いを終えた。これは告別式に臨んで彼に捧げた言葉である
これからしばらくの間君と思い出話をしようと思う。僕と違って記憶力抜群の君のことだから「違うよ違う!」と言いたいこともあるだろうがどうかおしまいまで聞いていてくれ。
僕が君をはじめて知ったのは、当時勤務していた歯科医院の院長から勧められて同じ町で小さな歯科医院を開いたとき、出入りの業者の○○さんから、若いがしっかりした仕事をする歯科技工士がいるから会ってみないか、ただちょっとばかり癖があるからあまり付き合いやすい男じゃないからそれを承知でよかったら連れてくるよ、と言われたときだった。
君とはまったく同い年だから二人ともまだぎりぎりの20代、今から40年近くも前のことだ。ふたりともまだ駆け出し同士、お互いの性格も腕前の程も、何より一番大事な歯科診療に対する姿勢など、すべてが探りあいの毎日だった。
始めてみるとやはり君は頑固一徹、医師である僕の注文をなかなか素直に聞いてくれなくて実にやりにくいパートナーだった。○○さんの話は半分は本当だったが半分は違っていた。確かにいい仕事をしてはくれたが癖があるのは”ちょっとばかり”ではなかった。多分○○さんは君に遠慮したんだろう。僕はとんでもない奴と組んでしまったものだと思った。理屈の言い合いで仕事がなかなか前に進まない毎日だった。
ところがまったく不思議なことにそのそもそものはじめからそういう君に僕はちっとも腹を立てることがなかった。僕の記憶にある限り君と仲違いしたことは40年間一度もなかったはずだ。何年か経ってそのころのことが話題になってあんなスタートをしながらよくまあここまで来たもんだね、何でだろうと言い合ったとき、君は、そりゃ先生の仕事がしっかりしていたからだよ、この仕事だったらいい義歯を作ってお返ししなきゃと思ったもんねと言い、僕は僕で君の頑固さには参ったけど言ってることはいつも正論だったし何より作る入れ歯をことごとく患者さんが満足してくれたからね、ちょっと態度が生意気でも怒る気にはなれなかったよ、と笑いながらお互いにエールを交換し合った。
もっともお互いをほめあったことなんて後にも先にも一度だけじゃないかな。いつの間にかお互いの気心がわかりお互いの仕事を信頼し合うようになって、僕らの間に言葉は要らなくなっていたんだと思う。
一度友人のドクターにいい技工士はいないかな、と頼まれて君を紹介したことがあった。せっかく紹介したのに君は申し訳ないけどあの先生の仕事ではいい入れ歯を作るのは無理ですと、あっさり断ってきた。歯科技工士の方から仕事を断ったなんて話はその後も聞いた事がないよ。
始めから終わりまでわれわれの合言葉は入れ歯は食うためのものだけど歯医者は入れ歯じゃ食えないね、だった。採算度外視の入れ歯作りはそのときから今に至るまで続いている。
基本を守りさえすればいいものはできる、という君の妥協を許さない完ぺき主義は、義歯以外のすべての歯科治療に対する僕の診療姿勢に強い影響を与えてくれた。
挫折しそうになったことがないわけじゃない。何日もかけて丁寧に仕上げたつもりの義歯が封筒に入れられて郵送されてきたこともあった。あのときはふたりで沈んだよね。
あるときは歯科医師会のドクターたちの研修会に僕が君を連れて行って、君が持論をとうとうと語ったのに対して聞こえよがしに技工士風情が生意気だと発言したドクターがいて、僕が、ろくに勉強もしていない医者より彼の主張の方がよっぽど的を射ていると反論して、終わった後二人で痛快痛快と乾杯しあったことを覚えているかな。まったくふたりとも若くて勉強しまくり議論しまくり毎日が楽しくて仕方がなかったね。
君は雨の日も雪の日も125CCのバイクの後に技工物を積み込んで通って来てくれた。君は患者さんの近くで仕事をするのが好きで入れ歯を削りながら、医院中に聞こえるような元気な声で患者さん相手によく山の話をしたり患者さんの仕事や趣味の話をして患者さんにとても人気があった。無愛想な僕に比べて君は話し好きで患者さんの個性をいち早くつかんでその人なりの対応をした。そんな君の姿を見て僕はどんなにたくさんのことを学ぶことができたか知れない。
6年前君が病を得たとき僕に手紙を書いてくれた。ショックだった。けれど最初の手術をしてしばらくしてまた通い始めた最初の日の君を見て安心した。顔も体も以前と少しも変わらないし何より声に張りがあった。手術は成功してもうすっかり大丈夫なんだと思った。その後は相変わらず重いかばんを肩にかけて通ってきてくれた。患者さんの近くに来てはいつもどおり大きな声で元気よく話すので、スタッフみんなが病状は快方に向かっているのではないかとさえ思った。実は病状は日に日に悪くなっていたのにいったん仕事に向かうと真剣で楽しそうでさえあった。
そんな君を見ているうちに僕はきっと奇跡が起こるに違いないと何度となく思った。事実君は何度か危機を乗り越えてくれた。
でも結局願いはかなわなかった。2週間前に奥様と一緒に訪ねてきてくれたときは別れがこんなに早く来るとは思いもせず岡山の田舎で静かに暮らす君の姿を思い描いて心を安んじていた。
けれど結局君はもっと遠くへ行ってしまった。昨夜も一昨夜もその前の日も、夜目が覚めると思う、君の指定席だった技工台の前に立つといつも思う、ああ君はもう僕たちのところには帰ってきてくれないんだと。あの底抜けに明るい笑い声を聞くことはできないんだと。
僕の3人の娘たちが生まれたときから彼らの成長を見守ってくれて、結婚式にも出てくれて、今は歯科医となった娘には君の知識のすべてを書き残してくれ、歯科衛生士となった末の娘をわが子のようにかわいがり時には笑いながら叱ってくれたりした君なのに、肝心な自分の娘さんの晴れの姿も見ることなく逝ってしまった。どんなに心残りであったかと思うと、娘が結婚する日の喜びを知っている僕はとてもつらい。君に喜びを味わわせてやれなかったことが悔しい。
ときに人の死に方はその人の生き方そのものをも意味するのだと言われます。危篤の報を聞いて駆けつけた私の家族5人が彼の枕元で呼びかけると苦しい呼吸の中で一人ひとりにうなづいてくれました。その姿が毅然としていてとてもまっすぐで誠実な感じで心を打たれました。それはまさしく彼の生きてきた姿そのものでした。枕元でお嬢さんが言いました。お父さんの人生は短くてもとてもぎっしり詰まっていて充実していたと思うと。私もそう思います。横道に逸れず信念に従ってずっとまっすぐに歩いた人生だったと。
もう君のあの快活な声は聞くことができないけれど僕たちには君が残してくれたやさしさと思いやりと誠実さの思い出が山ほどあります。そして僕は君に会えて君と40年間一緒に歩いて来れたことを感謝し誇りに思います。まだ君にお別れは言えません。ただ一言だけ。ありがとうのことばを君の霊前に捧げます。ありがとう、ほんとうにありがとう。
いつまでも君の友 竹内洋平
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