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  § オペラと歌舞伎(3) § 

             
 先日日生劇場で『夢の仲蔵 義経千本桜』を観た。ちょうどその日が楽日だったので幸四郎の「親の口から言うのもなんですが、あの此蔵がなければこの芝居はなかったといってもいいくらい良くやってくれた」という染五郎への賛辞なども聞けた。劇中劇で源九郎狐と定信の有名な場面が展開するのだが、染五郎の宙乗りが、市川家がやるのとは違った趣向で演技され、存分に楽しめた。

 歌舞伎は近年若い人を含めたあらゆる年代層に人気が出てきている。これは歌舞伎を担う役者さんたちの進取の気に負うところが大きいと思う。日本プロ野球が衰退の一途をたどり始めているのが、旧弊を恥じることない頑固じいさんたちが時代に鈍感であるのに由来しているのと好対照である。

 今年の七月大歌舞伎は蜷川幸雄の演出によるシェクスピアの『十二夜』だった。この芝居は尾上菊之助の、歌舞伎に新機軸をを取り入れようとする熱意と真摯さが、歌舞伎の演出とは一線を画していた蜷川を口説き落として実現したものである。
 とはいえ豊かな色彩と光に溢れる蜷川の舞台から、我々は歌舞伎からの少なからぬ影響を感じ取ることが出来る。昨年は博多座で『新近松心中物語』を観たが、蜷川の演出はその都度観客を驚かし圧倒する。博多座では観客席の半分に”雪が降り”、前列数列の客は役者が川に身投げをするとき水を浴びないようにとビニールシートをかぶせられた。『十二夜』では幕が上がると観客一同なんと自分たちの驚倒する姿を見せられる。広い舞台の背面全体の床から天上までにゆるやかに湾曲した巨大な鏡が設えられているからである。そうした演出上の手際の見事さは言うまでもないが、ほとんど同時期に発生した歌舞伎、オペラそしてシェクスピア演劇が、お互いに題材を取り合うような形で、演出家や役者たちによって今の時代に癒合され我々の心を惹きつけていることは確かである。

 しかし菊之助が意図しなくても本来歌舞伎とシェクスピア劇には共通点が多い。これにオペラを加えてもいいかもしれない。愛憎劇、人殺し、愁嘆場、非現実的な物語展開。さらにオペラと歌舞伎の共通点といえばもちろん音楽である。歌舞伎に興味を持ち出して最初に感じたことは歌舞伎って音楽劇なんだ、ということである。演技の背景には常に音楽がある。雪がしんしんと降り積もるのにも大太鼓の音の裏づけがある。まず音楽が鳴って、一呼吸置いてせりふがある。観客はト書きを読むように音楽によってその場の解説を聞かされる。これはすごいと思った。ある意味では音楽に偏重し過ぎたオペラに対して、舞台(踊り・所作)と音楽、それに物語とがバランスよく展開するのが歌舞伎であるとも言える。こういう総合芸術である歌舞伎を、かのリヒャルト・ワーグナーは何と評するだろうか。
(いつかにつづく)

 
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