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     § 長靴  § 

季語に「川浚え」というのがある。ネットで「川さらえ」と入力してみるといくつかヒットしたので未だに、というか今だからこそ行われているのかもしれないが、話はさかのぼること60年ほど前の昭和25,6年のことである。

諏訪湖に注ぐ横河川の上流の川浚えが季節にはかかわりなく毎日曜日に行われていた。30戸ほどの部落毎の持ち回りだったので割り当ては月一回であった。高齢で病身の母親と小学生の母子家庭では、私が出るか“出不足金”の五円を払うかであったが、毎回出務を欠かしたことはなかった。コロッケ一個五円の頃である。父親の僅かばかりの遺産を食いつないでいた家計の中で五円は大金であった。大人並みの鋤を担ぎどん尻をぶかぶかの長靴を履いて五、六キロの川べりを歩いた。上流は季節が来ればカタクリの群生が見事な場所で、夏にはイワナを素手で追い回したりもした。しかし“川浚え”となると風景が一変する。半人前にも満たない子どもでは大した役にも立たずかえって足手纏いでもあった。大人たちに別段白い目で見られたわけではないが気弱な性格は自らを必要以上に委縮させた。川浚えは毎回肉体的にも精神的にもまさに“苦行”であった。

その横河川の支流が家の近くを通っていて、風呂や洗濯、茄子などへの水遣りに利用していた。恩恵には浴していた川だったが嫌な思い出はまだある。

小学校六年の時にひょんなことからクラスでトンビを飼うことになった。何やらで傷ついて校庭に舞い降りたのを保護して、傷が癒えるまでということで飼い始めたのである。トンビの餌は青蛙で、これを男の子が毎日交代で取りに行くことになった。たまたま友だち二人と当番に当たったのは大雨の日であった。家近くの川が諏訪湖に注ぐ前の一キロの辺りが蛙の捕獲場所で、その日も三人は雨合羽・長靴という恰好で川に入り込んだ。子どものことで蛙を追いかけながらふざけ合ってお互いに小突いたりじゃれ合ったりしていたところに、私は足を滑らして転倒、同時に長靴の片方を流してしまった。川の中を片方の長靴を求めて必死で探しまわったが見つからなかった。ふたりは「帰って俺たちのせいだなんて言うなよ」と言い捨てて先に帰ってしまった。しばらくは土手沿いに走って未練がましく濁流に運び去られた長靴を探し求めたが徒労であった。長靴一足七、八百円の時代である。後年大学受験に際して一〇〇〇円の受験料を惜しんで一校しか受けられなかった家庭の八百円であるから、今になって考えてみると大失態を冒したものだ。家に戻ると母親は風呂に入っていた。外から長靴を流してしまったと告げたが、母親は一言も返してこなかった。その沈黙は叱責以上にこたえた。 

母親は二度と長靴を買ってはくれなかった。   

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