「すべて言葉はしみじみと言ふべし」
私の母は生母ではない。5歳のとき母が人に何げなく言った言葉からその事実を知ったのだが、母が死ぬまで、お互いにそのことについて口にしあったことはなかった。父は3歳のときに病死しており、そのわずかばかりの遺産に頼って暮らしていた母子家庭において私は幼少時のかなり早い時期から比較的高齢な母の庇護者的立場に立っていたので、真実を知りたいと思うよりも、ひた隠しにしようとする母を思いやる気持ちの方が強かったのだと思う。母も私を頼りにしていて、無学というより文盲に近かった母の代筆などをよくしたので、“拝啓 若葉の目にしみる候・・”などという手紙は小学校時代から書かされていた。そんなわけで、私はいわゆる年長者受けのする賢い子どもとして自他ともに認める模範児童であった。そう、15歳となった昭和31年信州の短い夏が終わろうとするあの日までは。
「手が折れちまったよー」
時ならぬ泣声に驚いて外へ出てみると右手で折れ曲がった左手首を支えたまま立ち尽している母がいた。右脇に挟んでいる紙袋を受け取ってみるとがざごそと音がする。中には数知れないイナゴが入っていた。
その数日前のこと。私は百メートル走の学校代表を決める競技会で補欠に終わり傷心のまま帰宅した。豊かではない我が家におやつが用意されていることは稀だったが、空腹を抱えて帰ったその日も戸棚には何もなかった。その上にその夜の食事はいつにも増して貧しいものだった。その食卓に座ったとたん、私はその後生涯にわたって後悔することになる言葉を発したのだった。
「たまには母親らしいことをしてくれたっていいじゃん」
“イナゴはタンパク質とカルシウムのかたまり”というのは母の素朴な持論であったが、自分でイナゴを捕りに行ったことはなかった。夢中で蝗を追いかけているうちに田圃のぬかるみに足をとられて転倒したはずみに骨折したらしい。母は病弱で一人息子に食事を用意する時以外は横になっていることが多かった。そんな母が病身を押して湖の近くの田圃まで、紙袋を持ってイナゴ捕りに出かける決心をした心情に思い至ったとき、私はあらためて自分が口にした忌まわしい言葉をかみしめていた。母の手に即席の添え木を当てながら、私は必死で涙をこらえていた。
昭和38年秋東京で大学生活を送っていた私に“母倒れる”の電報が届いた。翌年の2月初めに亡くなるまでの3ヶ月間私は休学して母の病床に付き添った。母の少し曲がったままの手首を時折さすりながら私はあの時の自分の言葉を思い出す日々を過ごしていた。 母は死んで心ない言葉を忘れたが私は生きながらえていまだに忘れずにいる。
「すべて言葉はしみじみと言ふべし」
良寛のこの言葉が今私の座右の銘である。
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