更新版
”ドロミテ・ヴェネツィアへの旅”
(つづき)
(フォト・PHOTOページに写真を掲載)
ボルツァーノからコルツィナ・ダンペッツォに向かうにはドロミテ街道をバスで移動するか、列車でブレンナー峠の方向にフォルテッサまで行きそこで西行きの列車に乗り換えてドビヤッコ(ドイツ名トブラッハ)まで、そこでバスでコルツィナに向かう方法などがある。昨日ドロミテ街道の約半分を回ったので後者を選択したが、それが失敗だった。
理由のひとつは車窓の風景が本で読んだ情報ほど特徴がなかったことでこれならドロミテ街道をもう一度眺めながらのバス旅の方がもっと楽しめただろうことだが、二つ目のはフォルテッサでドアを開けられなかったこと(CHIUSO!って「本日は閉店しました」だけの意味ではなかったらしい。乗車した時の乗り口のドアの内側にこの文字が・・・)。後ろに続いたイタリアの可愛い高校生のお嬢さんも降りられずに泣き出してしまった。スポーツの合宿に行く途中みたいな感じで焦っていた。
でいけないのは次の停車駅でやみくもに(思慮なく)降りてしまったこと。そこは小さな駅で反対向きの列車を3台もやり過ごす羽目に。畑の真ん中の駅でのんびりとイタリアの空気を吸い?ながら待つこと1時間半。ようやくやってきた列車に乗って40分ほど、今度は降りるべきドビヤッコで読書に夢中になっていたら向かいの席のパートナーが外をながめながら”ドビヤッコっておもしろい名前の駅ね”とのんびりした口調で呟いている。えっ?それって降りる駅、と思った途端列車は無情にも発車。これって旅なれている証拠じゃないよね。
右の2枚は"臨時下車??”駅と周辺。
下はドビヤッコのバス停前からみるドロミテ山塊
ドビヤッコからのバスは上り坂を快適に走るのだが天気はコルツィナに向かうにしたがって下り坂。ドロミテの特徴ある連山は残念ながらほとんどが雲の中。憧れのトレチーメはわずかに概容を眺められただけ。ただミズリナ湖だけは雨中に沈むように、むしろ"どこがいいのかわからない”というNET情報に反して神秘的で良かった。
コルツィナ・ダンペッツォという名前はトニー・ザイラーと猪谷千春が金銀を争った冬のオリンピックの記憶に結びつくが、街自体もその記憶を全面にとどめて存在しているという感じだ。もっとも冬ばかりではなくほかの季節には何百というトレッキングコースをもって迎えてくれる。我々もトレッキングを楽しんだ。コースの通し番号があって番号標識をみながら行けばどんな複雑なコースでも間違えることなく完歩できるように設定されている。
この後コルツィナ市内に戻りトレチーメを目指そうとしたが行くことは行けても帰りのバスがなくなってしまうことがわかり断念
(写真は408コース)
コルツィナには3000米級の山にかかる3つのケーブルがある。それにしてもヨーロッパのケーブルは日本のそれの比ではない。富士山の麓から頂上近くまで2つ、3つの中継点があるにしても一気に運んでしまう。アイガーの登山鉄道は別格の驚異だがこちらのケーブルも上に立つと息をのむ。遠くに、近くに特徴ある山容を連ねるコルツィナの山々の名を確かめながら、時には雲海を下に見て、時には可憐に咲く花々を踏みつけないように歩きながらカメラを向けたりしながら登り下りしてドロミテ最後の3日間を満喫した。
朝起きたら頂上に雪
コルツィナには3日間滞在した後、バスでヴェネツィアへと向かった。ところがここでもハプニング。何キロか先の対向車線で交通事故があり道路をふさいでしまったらしく出発直後からヴェネツィア行きの車線も一向に進む気配なし。車内から携帯でホテルに到着が遅れる、しかも深夜になるかもしれない、終着のバス停からリド島まで行くヴァポレットがあるか心配、と連絡すると、No
problem. We are waiting for you even till tomorrow. というはつらつとした若い女性の声があって一安心。3時間の予定がちょうど倍の6時間かかって何とかローマ広場に到着。
小雨そぼ降るヴェネツィアは懐かしいふるさとに帰ったような親しみを感じる一方、これだけの観光地でありながら、精を出して観光しようという気には決してならず、ただその情緒に浸っているだけの方がいいと思わせてくれる不思議な街。滞在の4日間はヴェネツィア合奏団のコンサート(イ・ムジチの音に慣らされた耳には素晴らしく新鮮で、『四季』『ディヴェルティメントK136』ほかをまるで別の曲のように聴いた)に行ったほかはトーマス・マンの『ヴェニスに死す』のリドの浜辺でのんびりしただけだったが、最終日にはトルッチェロ島のサンタ・マリア・アッスンタ聖堂のモザイクのマリアに再会に行き、その後最南端の島キオッジアをフェリーを乗り継いで訪れてみた。
キオッジアは紀元前1世紀にローマの支配下に入ったため横丁の町並みはローマ時代そのままといわれる。一方『小ヴェネツィア』と呼ばれるこの街の雰囲気は栄える以前のヴェネツィアの姿をしているといわれる。
3本の運河の両側には地元の人たちのためとしか思えない気楽な食べ物屋が何軒かあり、漁師風の人々がたむろしていた。ここでは英語がまったく通じず、持参した”指差しイタリア語」が初めて役に立った。”この町の見所は何ですか”を指し示すと、大笑いしながら”この町全部だよ。ああそれからあそこの教会にティントレットのすばらしい絵があるよ”と教えてくれた。こちらに来て初めて中華料理(といってもたらふく食べて2000円ほどの庶民的でおいしい店)を楽しんだあと、西の海に沈む夕日の美しさに見とれながらふたたびフェリーに乗って帰途に着いた。
さてこの小さな旅の日記もそろそろ終わりにしようと思う。さまざまなハプニング続きの旅であったが、土壇場にもうひとつハプニングが待っていた。
喧騒を避けて静かでしかも異国気分を味わえる場所はないかとヴェネツィアの街をそぞろ歩いていた。須賀敦子や塩野七海の本を読んでいるとときどき出てくるので前から興味はあったが旅行書にはあまり顔をださない旧ユダヤ人地区の一角に家庭料理の店が紹介されていたのでヴァポレットに乗って行ってみることにした。夕方の開店までは間があるので小さな橋のたもとの出店を冷やかし半分で覗いていた所、『今回の旅2組目の日本人』に出会った。ところがそれがなんとラングコーフェルをバックに写真を撮り合った、例の『爽やかカップル』であった。思わずお互い見つめあって、しばし唖然。この先どこへ行くとも告げずに別れたことを思うと、それもヴェネツィアといってもきわめてマイナーと言ってもいい街の、500はあるという橋のたもとで、再会とは。この偶然を神の配剤?と思って一緒に食事でもどう?と誘いたかったが、お若い二人がこんなおじさんおばさんと食事などとは気が進むまいとこらえて再び別れたが、なんとさわやかさんたちから逆に一緒に食事しませんかと誘ってくれるではないか。これぞ渡りに船、ならぬヴァポレット。一もにもなく賛成し、当初われわれが予定にしていたセルフサービスの店『ベンティゴーディ』でイカスミパスタをご一緒することになった次第。
食事をしながらのお互いの旅の話は楽しかった。先に書いた二人の旅の経緯などはそのとき聞いたものだ。
絵理さんのひとことひとことをかみしめるようにゆっくりと話す口調からは聡明さが伺われた。引き込まれるようで涼やかな目ときれいな歯並びが印象的だった。容子さんはこちらの話すことにすばやくしかもユーモアをもって反応する。目がいつも笑っていて思わず心が休まる感じがした。前にも書いたが世代がはるかに隔たった若い人たちと話している気がしない、会話が楽しいひとときであった。
その日は9時からアカデミア橋の近くの教会でヴェネツィア合奏団を聴くことになっていたので、それでも2時間ほどは話がはずむままにのんびりできた。二人はこの先1ヶ月近くイタリア、ドイツを旅するということなのでくれぐれも旅の安全を祈りつつ、日本での再会を約して別れた。
旧ユダヤ街で
旅は自分自身を見つめなおす良い機会である。また旅には日常性からの脱却という要素があるが、旅の終わり近くは日常へ戻るための心の準備を始めるときでもある。旅と日常を対比的に考えると、気が重くもなるが、私は旅に出るときにはあまり心を弾ませ過ぎないことを、また旅の終わりには明日からの日常をあまり気遣わないことを、いつも心がけている。旅を日常の中の通過点と考えることで決して旅の意義が損なわれるものではない。それどころか私は旅に出る前にすでに旅を始め、帰ってからもずっと旅をしている。そして前の旅を振り返りながら、もう次の旅の準備を始めている。それが仕事を活気づかせてくれることを信じているからである。
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