§
まぼろしとなったカルテット
§
わが友へ。
君が逝ってまもなく1年。今正直なところ、君がこの世に存在していたことの証しをさぐるよすがさえ失いかけています。いつでも会える、いつまでも共に居られる、という安易な気持ちが君が存在することの貴重さを僕に忘れさせてしまっていました。いつまでも一緒には居られないという気持ちがあればこそ人は一期一会の気持ちで一瞬々々を大切に思うことができるというのに、余りに身近過ぎるが故の過ちを冒してしまいました。
僕にとって君はもっと音楽の師であるべきでした。人生のエピローグを間近に控え、オーケストラで、室内楽で、カルテットで、人生をリセットしようというとき君は僕にとってかけがえのない師となるはずでした。僕のうかつさは君の豊かな弦の響きをあっさりと過去のものにしてしまいました。取り返しのつかない失態でした。でも君がこれほどに早く僕の視界から消えることなど誰が予想できたでしょうか。語り合うべきことは山ほどありました。でも君がこれほどあっさりと対話を拒絶する人になるなど想像できたでしょうか。悔恨に果てしはありません。生者必滅が世の習いとは言えあまりにも残酷な神の仕打ちでした。北原先生を交えての憧れのカルテットはまぼろしとなってしまいました。
もう四半世紀以上昔のことになってしまいましたが、君と西洋の国を旅したことがありましたね。ローマ・フィレンツェ・ミラノと北上し、雪のアルプスを越えてパリまでの長い旅でした。
その旅でのひとこま(左は私)
その旅の中で、僕は君の茫洋とした風貌からはうかがい知ることができなかった繊細なほどのやさしさに気づきました。寡黙さの中にひしひしとした思いやりの言葉を聞くことができました。登茂子さんは良い人と一緒になれたな、と嬉しく思いもしました。
大晦日はローマで迎えましたね。あちこちの建物の窓から不要となったいろいろなものを路上に放り出す習慣を面白がって見ていましたっけ。ところで覚えていますか、その夜の君の失態を。ふたりしてバールでしたたかに飲んでホテルに帰館。バスタブにいっぱいにためた湯の中で君は気持ちよく寝入ってしまい、僕が何やら不気味な気配を感じて目を覚ますとバスタブから溢れた湯がひたひたとカーペットに押し寄せていました。さあそれからが大変。まるで旅行案内書の『海外旅行で注意すること』を絵に描いたような失態でした。ふたりであらゆる布類を引っ張り出してカーペットの上に敷きつめ、下の階からいつ罵声が聞こえてくるかと戦々恐々でした。翌朝テレビでローマ法王の“新年ミサ”を無事に聞けたのは奇跡としか言えないと笑い合いましたね。またその旅であまりにひどい君のいびきを戯れに録音して翌日聞かせたら、翌々日には見事に僕のいびきを聞かされる羽目になったり、とにかく笑いの絶えない珍道中でした。
2000年の歴史をもつ遺構を見て、中世の芸術やルネッサンスの息吹に触れ、雪のアルプスを越えて、ルーブルに至ったあの旅は君と僕の少し遅れてきた青春の記憶として今鮮やかによみがえってきます。
君を失った今、君と共有できる数少ない思い出としてこの旅があることを感謝せずにいられません。
もはや叶わぬこととなってしまったけれど、君の薫陶を受けつつ末永くカルテットを楽しみたかったな・・・・・。(2006.1月記)
|