§ 開かずの間の記憶 §
私が幼少期を過ごした家は藁葺き屋根の田舎家だった。かつて製糸工場の町として栄えた信州のその小さな町は当時すでに凋落の兆しを見せ始めていた。
藁葺き屋根の住人は、3才の私と母親の二人だけだった。会社を経営していた父は、その年昭和19年に病死していた。その町の中心にあった父の工場は米軍機の爆撃の目標になると言うので、父の死後いち早く取り壊しに遭い住居のひと間分だけ市の予算で、だいぶ年齢の違う姉が嫁いだ先の郊外の地に移築された。しかし本来の住人である歯科医の姉夫婦が東京で開業していたため、私たち母子は、もっぱら母屋にあたるその藁葺き屋根の家に住むことになったのである。
家は東西に長く、北側には十畳間が3部屋並んでいた。建物の中央から南側にかけては十坪ほどの土間をもつ玄関、それに続く囲炉裏つきの台所、さらに十五畳とふたつの六畳間があった。私と母はその中で,他人様からみるとふたり住まいには広すぎる十五畳の部屋に大方の家財道具を集めて寝起きしていた。多分玄関と台所に続く使い勝手と日当たりの良さを母が好んだからであろう。
手洗い(母は「ご不浄」と言い、私は「お便所」と言いならわしていた)は家の北西の隅に出っ張ってあり、夜など居間からそこへ行くには北側の中央の部屋を通り,雨戸の一本に設けられたくぐり戸を抜けて外に出て,縁側を渡って行かなければならなかった。そのために夜の用足しをじっとこらえていたなど娘たちには想像もできまいと思う。北側の庭は奥行き狭く,杏や柿、梅などの古木が庭をさらに暗く陰鬱にしていた。夏、蚊帳の上にどさりと落ちてきたものがあって目を凝らすと2メートル近い蛇だったこともあり、蛙やナメクジなどもよく部屋に入りこんできていた。北側のもうひとつの部屋は鬼門にあたる北東に位置していたが、ここは長いこと『開かずの間』になっていた。幼児期の私にとってそれは恐怖と神秘に包まれた部屋だった。怖いもの見たさに開けてみようとしたことも何度かあったが、重々しい引き戸はためらいがちに試みられるか弱い力をそのたびに断固拒絶した。畏怖と好奇の心が子供の小さな頭脳に空想の図を描かせた。父親がそこにいるのかもしれないと考えていた時期もあったが、いったいどういう姿でいると想像していたのか記憶にない。父親についての思い出などはありようもないが、今私の思いの中にある父は、母や周りの大人たちの言葉が描き出した「こわい」父ではなく、なぜか孤独で寡黙な父である。
何か物音がすると得体の知れない生き物を思い描いたり、静まり返っていればいたでその動物がじっと息をひそめている姿が身震いを起こさせた。母がそこを開けようとしないことから、そこは母にとって忌まわしいものの置き場かもしれないと思ったこともある。空想にはとりとめがなかったが、実際にはそこは書物や自ら描いた油絵などを始めとする父の遺品の宝庫であった。
やがて庭先に土蔵が建ち、その部屋の多くの品が運び出された。畏怖はあっさり取り除かれ、好奇心の大部分は裏切られたが、かび臭いその部屋の匂いはその後長く「父の匂い」として私の心をゆるやかに揺さぶり続けた。
二つの品が残され部屋自体も学齢期を迎えていた私の「勉強部屋」になった。残された足踏式オルガンと蓄音機が兄弟のいない私の友となった。山積みされたSPレコードは傷だらけになりながらも繰り返し音を出し続けた。その後オルガンは米代に代わったが、蓄音機の方は長いこと友への自慢の種であった。
私は幼児期の早い時期にバイオリンを弾くようになり、長じて大学オケ、市民オケを経験し、今また人生の最後の四半期にあって日夜カルテットにうつつを抜かしている。
「開かずの間」には早逝した音楽好きの父の遺言がつまっていたのかもしれない。
Photo & 文 : 竹内洋平
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